2011年4月 明細書和訳 - 実際の訳例に基づいて
今回は、初心者の訳文に時々見られる誤訳(といえないまでも稚拙な訳)の例を挙げてみます。
次の英文はある英文明細書の「最良の実施形態の記載」の冒頭部分です。皆さんならどう訳しますか?
In accordance with the present invention, there may be employed conventional molecular biology, microbiology, and protein chemistry and recombinant DNA techniques within the skill of the art.
この本文部分について次の二人の訳を比べてみましょう。
本発明に従って、公知技術の範囲内で、従来の分子生物学、微生物学、蛋白質化学及び組換DNA法を実施することができる。
本発明においては、当業者の技能の範囲内にある、従来の分子生物学、微生物学、蛋白質化学及び組換DNA技法が利用されるであろう。
さて、如何でしょうか?一見、どちらも全く問題ないように見えるかもしれませんが、問題となるのは主に、(1) In accordance with の訳、(2) within the skill of the art の訳、(3) within the skill of the art の「係り」です。それらの点に注意して上の訳を比べてみてください。
まず(1)の In accordance with から始めましょう。特許明細書では特に "the present invention" が後に続く場合、in accordance with は「~に従って」や「~に即して」ではなく、「~においては」と訳すべきことが多いので、これを訳の第一候補にしてください。
(2)の within the skill of the art は、ここでは「当業者が備えている技能の範囲内」という意味です。「当業者」という言葉は特許分野では非常によく使われる語ですが、これは特許法29条2項(進歩性の規定)にある「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者」を指していう実務上の慣用語です。英語では a person having ordinary skill in the art や skilled artisans など、色々な言い方があります。Aさんの「公知技術」も一見よさそうですが、これは英語で言えば "(publicly) known art" に相当する語であって、今回の"within the skill of the art" とは意味が異なります。なお、"art" は「芸術」ではなく、「技術」、特に「本発明が属する技術分野」のことです。
(3) の係りについては、文全体の意味・機能から考える必要があります。文全体を修飾しているのであれば、「当業者の技能範囲内で~を利用することができる」となりますし、直前の名詞句を修飾しているのであれば、「当業者の技能範囲内の~を利用することができる」となります。この場合、どちらがより適切でしょうか?
さてここで、この文章は明細書(の中のこのセクション)でどういう機能を持っているのかを考えて見ましょう。
"DESCRIPTION OF THE PREFERRED EMBODIMENTS"
というのは日本の現在の明細書様式で言えば「発明を実施するための形態」に当たるところです。ここは、当業者が特段の労力を要することなく本発明を実際に追試できる程度に詳細な記述が与えられていなくてはならない、とされています。この法的要件を満たすために、例えば化学合成の分野ですと、使用する原材料の入手法或いは調製法の記載や、使用する技法の記載が必要とされます。しかしながら、科学技術の分野では、それらは実際にはその分野の人にとっては「当然知っていること」になっていることが多いのです。よって、その分野の人であれば誰でも知っているようなことは書かずに、代わりに「この発明で使う個々の材料や方法そのものは、当業者であれば書かなくてもわかっていることなので一々説明することは省略しますよ。」という断り書きを冒頭に書いておくということなのです。
それを頭においてもう一度、訳文を考え直してみてください。参考までに、上に説明した文の機能(役割)に重点を置いた訳を下に掲げます。
3.文の役割や機能により重点を置いた訳本発明においては、従来の分子生物学、微生物学、蛋白質化学及び組換DNA技法を、当業者の技能範囲内で利用できる。
正訳、誤訳といいきるのは難しい場合も多いのですが、明細書が果たすべき機能を理解して、その機能を十分に発揮させる観点から原文を解釈することが、特許翻訳者に求められる姿勢であるといえるでしょう。