2023年6月 翻訳のヒント(英訳)- 「原文に忠実」の呪縛
PCTの国内段階移行用の翻訳文では、原文の記載を意図的に変更しない忠実な訳が求められます。これを「原文の(内容ではなく)文言に忠実な訳」と捉える翻訳者や翻訳会社もあるようです。このような場合、翻訳者は辞書的な対応に縛られた翻訳をしがちで、皮肉にも生成AIの訳文より不自然な訳文を生むことがあります。今回は、このような翻訳文を改善していく過程を通して、翻訳者のタスクを再確認してみましょう。(原文)
「得られるポリマーに芳香族部分を誘導するモノマー」
(原訳) "the monomer for deriving an aromatic moiety in the formed polymer" |
原訳者は「誘導する」に対して単純に derive を充てました。動詞 derive のラテン語源は、de (from) + rive (river) にあり、本来「~から得る」や「引き出す」など「起源」を原意とする動詞です。従って、上の訳文は一見正しそうですが、モノマーが能動的に芳香族部分を引き出すかのような表現となっており、原文の意図を誤解させる恐れがあります。
(改訳1) "the monomer from which an aromatic moiety is derived in the formed polymer" |
それならば、「from を入れて受動態にすればよいでしょう?」と改作したものが改訳1です。確かに、動詞 derive の用法としては望ましい使い方になりましたが、前置詞 from と in の共存は不明瞭さを招き、「前置詞+関係代名詞」を伴う表現としたために表現にもたつきが感じられ、読み難さがあると思います。
(改訳2) "the monomer which can provide an aromatic moiety in the formed polymer" "the monomer which can provide the formed polymer with an aromatic moiety" |
そこで、動詞を変えてみます。お気づきのように、原訳と改訳1の問題点は「誘導する」を derive に固執したことです。発明者(研究者)は原文で「誘導する」と能動的に表現する気持ちはありますが、英語にした場合には「誘導」の主体が行為者ではなくモノマーです。そこで、この際 derive を捨て、技術的に等価に表現可能な他の動詞に変更すればよいはずです。一例として、「与える」意味の provide を動詞とすればどうでしょうか?原文の状況を正しく反映する英文となります。
provide は「提供する」であって、「誘導する」ではないとの主張する方は、「文言上の機械的直訳」との呪縛に囚われています。翻訳者にとって、原文が意味する事象を理解した上で、その意味を変えることなくフレキシブルな英語で表現することが重要です。20年位前の機械翻訳では原訳や改訳1のような訳文が得られることもありましたが、今の生成AIは改訳2のレベルの翻訳結果をサラリと提供します。生成AIは膨大なデータに支えられていますが、生身の翻訳者は「経験」、「熟考」と「表現のフレキブルさ」をベースとして良い翻訳を生み出したいものです。
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