翻訳のヒント[バックナンバー]

2023年10月 翻訳のヒント(英訳)- 「~に加熱する(前置詞は?)」

 「~℃に加熱する」は特許明細書に頻出する表現の一つです。この中の助詞「に」は、英訳に際して注意したいワードです。実例を見てみましょう。

(原文)「この溶液を90°Cに加熱して溶媒を除去した。」

(訳文)"The solution was heated at 90°C to thereby remove the solvent."

 ある訳者から、『助詞「に」は、ある点から他の点への移動を意味するので、訳文の前置詞は to ではないか?』との意見がありました。確かに to も可能な前置詞ではありますが、上の訳文で at を使った理由を説明します

 1.まずは語感の問題です。他動詞 heat は「暖める」が原意で、to の存在にかかわらず動詞自体が「対象物の温度をより高い温度へ上げること」を意味します。更に前置詞 at には「あるポイント(点)」を指定する機能だけでなく、方向性を示す機能もあります。従って、heated at 90°Cは、「ある温度(例えば室温)の溶液を目標温度90°Cに設定された加熱器具で加熱する」という状況を表現しています。オーブンなど調理器具の温度設定をイメージしてみてください。
 2.技術的な観点からは、上の例では90°Cに達する過程よりも、得られた90°Cの溶液温度が本質です。90°Cで溶媒の蒸発が始まるのなら、そこで温度上昇が止まります。従って、実態は溶液が90°Cで加熱されている状態を表しているとも言えます。このような状況には「ポイント」を表す前置詞 at が適切です。

 一方、前置詞 to がフィットするのは、次のようなケースです。

(原文)「20°Cに保持された溶液を30分かけて90°Cに加熱した。」

 この加熱には、単に90°Cという目標温度だけでなく、20°Cから90°Cへ特定の昇温速度で加熱したプロセスが含まれ、その重要性に重きを置いた記述です。最初の助詞「に」は温度の始点を表し、二番目の「に」は昇温(即ち遷移)の終点を表します。従って、後者の「に」は at ではなく、より移動方向を意味する to のほうが適切です。

(訳文)"The solution maintained at 20°C was heated to 90°C for (好ましくは over) 30 minutes."

 尚、期間を表す前置詞を for でなく over とすると「30分かけて、30分間に亘って」のニュアンスが表現できます。

 上に例示した at と to だけでなく、前置詞の使い方は、理論だけではカバーできません。英語の語感によるところが大ですので、英語ネイティヴの意見を参考にしたいものです。また、訳者は「に」=at のような機械的変換を避け、原文の事象を的確に把握し、原文の意図を良く汲み取ることにより、原文に沿った翻訳を心掛けたいものです。


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