翻訳のヒント[バックナンバー]

2020年8月 翻訳のヒント(和訳・英訳) - Adhesion

 科学的には「付着、接着、粘着」を意味する adhesion(動詞:adhere)ですが、辞書だけに依拠して形式的に訳してしまうと不自然か不正確となることがあります。和訳、英訳の両方で問題があった例を見てみましょう。

1.firmly adhered (和訳)

 フライパン等の調理用具の表面コーティングに関する特許明細書に従来の問題点として、

 "the food such as eggs is firmly adhered"

という記載がありました。
 最初の訳者は「卵等の調理物がしっかりと付着する」訳していました。確かに技術的には間違っていませんが、「しっかりと付着」と訳されると「付着」自体が好ましいのか、そうでないのかの判断に迷います。本件の場合、フライパンでよく問題となる洗い落とし難い好ましくない「付着」を指していました。そこで、firmly adhered を stuck と等価であると解釈し、キッチンで普通に使われる「こびりつき」に変更しました。腑に落ちる訳になったと思います。

(改訳)「卵等の調理物がこびりつく

2.粒子の密着性(英訳)

 グラファイト粉を加圧成形して熱伝導体を作製する際、グラファイト粒子同士の接触状態が良いと高い熱伝導性が得られます。ある特許明細書は、この粒子同士の接触状態のことを「粒子の密着性」と表現していました。この場合の「密着」とは、adhesion のような粒子同士が結合したり固着しあう意味ではなく、粒径が小さく均一であるため集合密度が高いことを意味します。
 最初の訳者は「粒子の密着性」を、"adhesion between particles" と訳していましたが、このように表現すると「密着」が粒子同士の貼り付きや接着を指してしまう可能性があります。そこで、実態に則して「密着」を「密に接触し合う」と解釈し直して訳を変更してみました。

(改訳)"close contact between particles"

 上のようなケースは adhesion だけに限られないと思います。訳のスタンスについてコメントをした上で柔軟に訳すことは時として訳者に許容されましょう。このようなとき、以前ベテランの翻訳チェッカーの方に「辞書に載っていない訳語です!」と指摘されましたが、チェックコメントはそれで良いとしても、訳者のスタンスが「辞書の訳語が頭にこびりついている」状態であれば、ほぐす必要があるはずです。



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