翻訳のヒント[バックナンバー]

2018年9月 翻訳のヒント(英訳)- 装置の構造を表現する際の注意点

 今回は、機械分野の明細書を英訳する際に注意するべき事項です。

 機械分野の明細書、特に装置や構造物に関する発明を記述する明細書には必ず構造が記述されます。そして、その構造をいかに正確に且つ誤解を生じないように(そしてできればわかりやすく)表現するかが、特許取得プロセスにおいて重要なポイントです。

 しかしながら、物体の三次元構造を言語で表現するのは、日本語であれ英語であれ、それほど容易なことではありません。

 一方翻訳者は、つい「原文に忠実に訳さなければならない」という考えが先に立ち、日本語と英語は単語レベルで置き換え可能な言語ではない、ということに思い至らない方が多いようです。

 原和文明細書における日本語表現の不明確さや稚拙さは、「原文にこう書いてあったのでよくわからなかったけれどもそのまま訳しました」と主張する「原文どおり」主義の翻訳者にかかると、その瑕疵はますます重大なものになってしまいます。

 そのような事態を避けるため、英訳者は具体的にどういうことに気を付ければいいのでしょうか?次の例をもとに考えてみます。これはある構造物(薬液容器)の実施例の記述の抜粋です(以下、記述Aとします)。

「ベース部材は、ベース部材内に形成された薬液収容部の底面部の中心方向に向かって傾斜する錐体状上面15を備えている。」

 これを訳すにあたって翻訳者のするべきことは何でしょうか?順番に列挙してみます。

 1)まず発明を十分に理解し、何が従来とは異なる新しい思想・態様なのかを把握する必要があります(明細書全体をしっかり読む)。構造物の発明の明細書には図面が添付されていますので、明細書の表現を図面と照らし合わせて確認します。

 2)そのうえで、一文ごとに、文を書いた人が何を表現したかったのかを読み解き、それに即した英語表現を考えます。
 → 上の記述Aについていえば、これは抜粋であるだけでなく、ここには都合により参照する図面を掲載していないので、さっぱり意味不明なのではないでしょうか?こういう場合、実際には、決して面倒がらずにその文が参照している図面をよくみて、正しい「かかり」を読み解きます。記述Aでは「ベース部材内に形成された」がどこにかかるのか、この一文だけでは全く分かりません。日常的な文章の読み方をしてしまうと「ベース部材内に形成され」ているのは「薬液収容部」ではないかと思うのではないでしょうか?これは実は誤読で、図面を見て初めて「ベース部材内に形成され」るのは「底面部(薬液収容部の)」であることがわかるのです。
 そうするとさらに疑問がわくかもしれません。なぜ、この書き手は「ベース部材」に「(薬液収容部の)底面部」が存在する、と表現しているのだろうか、ということです。このように考えていくことによって、より深く書き手の気持ちに沿うことができます。この例では、おそらく「ベース部材内」というのは、ベース部材の(表面の)一領域を指していると思われます。
 次に「錐体状上面」とは何をイメージしたらいいのでしょうか?「錐体」とは、幾何学的には、底面が円や多角形などの平面図形で、その周あるいは辺上の任意の点と底面の上方または下方の1点を結ぶ線分の集合体のことですが、わかりやすい例でいえば、四角錐はピラミッドの形状、円錐は道路工事の際に見るいわゆるコーンや、アイスクリームコーンなどということになります。
 ではその上面とはどこを指しているかといえば、図面からは、ベース部材の中央部に設けたすり鉢状凹部を確定する面であることがわかりました。わかりやすい例でいえば、蟻地獄の巣の壁面(蟻が必死に這い上がろうとする斜面)や、日本酒をいただくオチョコ(飲み口が広くて底がすぼまっているタイプ)の内面を指していました。こういう状況をしっかり認識しないで単語レベルで、例えば ”cone-like upper surface” 等と訳すと、凸状の面と理解されてしまう可能性があり現地審査官に誤解や混乱を引き起こしかねません

 3)その英語表現が権利範囲を不当に狭めていないか、よく考えます。
 → 本例の記述Aでは、後の方に「錐体状」は「円錐状」でも「多角錐状」でもよい、とありましたので、”cone-like” と訳した人は果たしてこの表現が角錐形状をも包含するかどうか、検討しなくてはなりません。OALDでは conea solid or hollow object with a round flat base and sides that slope up to a point と記載されており、底面は round とされていますので、角錐まで cone でカバーさせるのは無理があります。そういう場合には pyramid, pyramidal などの語を組み合わせた表現を使用することも検討する必要があります。

 4)そのうえで、より特許英語として適切な表現方法がないか、考えます。
 → 日本語明細書では、スペース(空)の部分と実 (solid) の部分をどちらも同じように表現し、「スペースを形成する」などと書きます。しかし、英文明細書では、スペースは空であって、部材ではないので、「成」らせることはできず、実体のある部材とは違う表現で記述しなくてはなりません。
 たとえば、本例では「薬液収容部」を初心者は ”drug containing portion” と訳したりしますが、これは空なので実であることを imply する portion ではなく、”drug containing chamber” 等とするべきでしょう。
 また、「ベース部材は …… 中心方向に向かって傾斜する錐体状上面を備えている」の部分は、「ベース部材の上面は …… 中心方向に向かって傾斜する(収束する)錐体を画定(define)している」のように考えるのが英文明細書らしい発想です。もっと define という語を使用することを心がけましょう
 なお、もし、これがPCT経由のものでなく、直接各国に入る米国出願などであれば、よりわかりやすくするために「漏斗の内壁」などの表現を加えることもできますが、これはしっかり発明品の構造を理解して初めてできることです(ただしあくまで補足であって書き換えでないことに注意)。

 5)このようによく考えてもどうしても理解できない箇所がのこるはずです。そういう点については、やはりクライエントに相談して確認するべきでしょう。

 日本人であっても、構造物を日本語で正確、明確、簡潔に表現するのはたやすいことではありません。まして、発想の異なる言語である英語でそれを表現しなおさなければならないとなると考えることは多岐にわたり、並大抵のことではありません。しかし、特許翻訳を志す方は、ぜひ逃げずに挑戦していただきたいですし、また、それを楽しめる方こそが、特許翻訳者に向いていると思います。



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